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JA組織の概要

組織・地区の概要

地 区

妹背牛町・秩父別町・沼田町

組合員数

計2,267名

(正組合員数997名・准組合員数1,270名)

地区内正組合員戸数

609戸

役員数

理事14名(うち常勤4名)

監事5名(うち常勤1名 員外1名)

職員数

正職員 121名

準職員 38名

作付面積

水 稲 6,807.0ha

畑作物 2,580.4ha

花 卉 42,5ha

青 果 64,9ha

財務の状況

資産の部

(単位:千円)

負債・純資産の部

(単位:千円)

(令和5年1月31日現在)

貯金

貸出金

共済事業

購買事業

販売事業

沿革

北いぶき農業協同組合は、旧妹背牛町農業協同組合、旧秩父別農業協同組合、旧沼田町農業協同組合が合併して、平成15年2月1日に誕生いたしました。

JA北いぶき以前のJA妹背牛、JAちっぷべつ、JAぬまたは、それぞれ北海道開拓という厳しい時代からの、歴史ある農業協同組合でした。

その歴史が未来への息吹となるよう、JA北いぶきは一歩一歩しっかりと歩んでいきたいと考えております。



旧JA妹背牛

妹背牛町開拓の歩み

華族農場時代:妹背牛町の開拓の草分けとなったのは、三条公爵、蜂須賀、菊亭両候爵等の華族農場によるもので、明治26年、菊亭家所有の未墾地550haの分譲を受けた札幌農学校の初代校長、森源三氏がこの地を再び7つに分割鬱蒼とした原始林に大きな夢を託し開拓に鍬をいれたのが始まりです。

深川村時代:明治25年2月4日、北海道庁令第五号によって深川村が誕生し、明治26年から大正11年末までの29年間は、妹背牛地区としての発展期ともいえる時期で、産業経済・教育・文化・交通等あらゆる基盤が形成された時代である。明治29年稲作試験耕作成功・明治31年鉄道開通・寺子屋教育開始・大正5年大正用水竣工など。

妹背牛村時代:深川村は大正7年1月から町制を施行。大正9年小学校増築問題を契機に妹背牛地区では深川町会に分村独立の建議案を提出、幾多の困難を経て大正12年1月深川町から分村した。大正12年から昭和27年までの29年間は、妹背牛の躍進時代、各分野で大いに妹背牛が発展を遂げた時期であった。

妹背牛町時代:昭和27年2月11日町制が施行され新しく妹背牛町として発足をみた。 妹背牛町の完成期。

町名の妹背牛はアイヌ語モセューセに由来しており、「イラ草の茂れるところ」の意である。イラ草は肥沃な土地に生える草でアイヌが着るアツシの繊維として用いられた。

開拓初期は「望畝有志」と書いたが、明治31年7月16日鉄道開通に際して、鉄道省が「妹背牛」と駅名をつけたので、それより以後現在の標記を用いている。



妹背牛産業組合

妹背牛購買販売組合:明治37年6月29日、妹背牛購買販売組合が設立された。同組合は軍用エン麦、ワラ工品、肥料などの取扱を事業とし、これらの斡旋機関としての色彩が濃いものであったため地域に密着した事業は少なく、しかも組合員の理解を十分に得られなかったため大正5年7月に解散した。

大鳳生産組合:大正2年の大凶作を契機に産業組合設立の機運が高まり、同意者70余名をもって、大正5年11月17日に大鳳信用組合が設立された。

無限責任妹背牛産業組合:大正8年6月25日に同意者108名をもって、無限責任妹背牛産業組合が設立された。その後大正10年1月には、購買販売事業に加えて信用事業を開始した。

妹背牛産業組合:その後両組合は健全な発展を続けたが、1村に二つの産業組合があることの是否について異論がだされ、関係機関の斡旋もあり昭和16年4月大鳳信用組合を妹背牛産業組合に併合し、村一円を区域とした「妹背牛産業組合」が発足した。

産業組合当時の役員

石油発動機による脱穀共同作業

妹背牛農業会:昭和19年農業団体法の公布に伴い、農会と産業組合を解散され、妹背牛農業会が生まれた。



農協の設立

妹背牛村農業協同組合 昭和22年に農業会も解散、農協法の公布以来、妹背牛では農民連盟が農協設立に深い関心を持ち、研究に余念がなかった。こうした情勢の中で昭和23年1月19日、設立発起人会が村役場議事堂で開かれ、設立発起人代表に池山文造氏を選出。 設立発起人は全村を網羅した次の67名である。

池山文造、長田久蔵、山本作太郎、三山佐久、早川信太郎、木沢佐之助、寺崎鉄五郎、高橋武平、桑島亀太郎、中川清三郎、猿倉梅吉、広川 健、加藤春治、寺田嘉太郎、笹尾清太郎、野寺芳信、高村豊作、長谷川吉太郎、川田由五郎、朝日公二、谷 久一、伊藤 栄、入谷貞男、長田春市、杉本安次郎、田倉作雄、田中隆、伊藤猪五郎、業天秋義、先名賢次、永森友茂、伊藤九一、牛田茂、前林栄作、篠沢留次郎、加藤喜伝治、藤井斉、谷川大作、安井熊吉、佐々木米太郎、星野豊太郎、藤原利与太、大川助市、堀口正一、高橋艮三郎、清水 保、森島貞市、広沢一、上西信夫、佐藤貞治、今田市三郎、郡栄次、野崎真一、久保広市、山下虎吉、宝住三次郎、本田清次郎、田村忠三、宮田儀八、荒井庄蔵、遠藤仁市、本沢克己、高橋好道、丹澄三郎、飯島幸義、佐藤源逸、金山成二

〈敬称略〉

設立準備会は昭和23年2月8日、妹背牛小学校に334名が出席、議長に安永章氏を選任して開かれ、定款に規定すべき基本事項、事業計画案、収支計画案などの骨子のほか定款作成委員、組合員資格審査委員、事業計画委員をそれぞれ選出し、農協設立同意書を各農事組合に取りまとめることを決めた。

また、妹背牛村農業会は同年1月31日、妹背牛小学校で臨時総会、解散準備、総会、解散総会を開催した。


昭和23年3月7日に創立総会を設立同意者888名のうち、正組合員有資格者875名を得て、妹背牛小学校に687名が出席して開かれ、安永章氏を議長に選任し、定款諸規定で事業計画及び収支計画案などが原案どおり可決された。 なお、選出された役員については次のとおりである。

理事

安永章、広川健、山下福松、村上民次、浜名卓三、堀口重夫、野間延雄、高橋好道、三山佐久、野寺芳信、川田由五郎

監事

石原 勇、池山文造、伊藤猪五郎、堀田恒栄、広田順之助

〈敬称略〉

また、総会終了後に役員の互選を行い、組合長に安永章氏を選任し、妹背牛村農業協同組合が発足した。

農業会解散総会


妹背牛町農業協同組合:昭和27年2月より「妹背牛町農業協同組合」と改称しその後の歴史を築いた。


北いぶき農業協同組合:平成15年2月1日に「北いぶき農業協同組合」として新たな船出をするまで、共存共栄の旗のもと、幾多の試練を乗り越え組合員と一体になって経営安定の基礎を築き上げた実績が認められ、昭和28年および昭和33年にJAとして最高の栄誉である全国農業協同組合中央会の「全国表彰」「特別表彰」を受賞した。

稲架を下して

手による除草作業

納屋への稲運び

戦時中労働力不足で畜力除草

産米改良で「俵」編講習会

S41~S47馬そり客土



旧JA秩父別

秩父別町開拓の歩み

秩父別町は、明治初期の北方警備と北海道開拓を兼ねた国の大方針として打ち出された「屯田兵制度」により、明治28年・29年の両年、屯田兵及びその家族が入村したのが始まり。

当時のとん田兵屋


第一大隊本部を深川村字イチヤンに置き、移住兵員総数1,000のうち、第一・第二中隊400を字チクシベツ(明治34年分村独立で「秩父別」と命名)に配備され、当地開拓の第一歩となる。(明治29年の世帯数は410戸、人口は2,355人。)

明治34年当時の役所


屯田兵員とその家族は、入地と同時にうっそうとした大原始林を切り開き、笹などを取り除くことから始められ、戸主は連日練兵に出勤し、日中の作業の多くは必然的に家族の肩にかかり、農業経験のない者は初歩からの指示や指導を受けて開墾・耕作を行ったが、稲作が軌道に乗るまでは、アワやそば、馬鈴薯などが日常の主食であった。

また、本村創設時には、本体本部より水稲耕作は禁止されていたが、東秩父別村の北部は強度の酸性土壌と湿地帯が多く、稲作に対しての要求を持つようになった。


秩父別産業組合

屯田兵の入村から10年以上が経過し、水田も500町歩ほどとなったが、営農資金などもなく、日用雑貨を購入をしても出来秋に収穫物をもって支払うのが通常であった。

農家が買う品物は高く、販売する農座物は安く、平年作でも春からの付けを払いきれないなどの状況もあり、これらの困窮状態から抜け出す為には、自分たちでお互い助け合い、資力のない小生産者が信用で金融ができ、営農や生活を営む為、「産業組合」を作る事が良いという事を、黒田伊曽次氏、下地長九郎氏らが耳にし、31人の賛同者を得て、「秩父産業組合」の設立総会開催にこぎつけた。


総会では定款の承認と、初代組合長には黒田伊曽次氏を選出し、明治44年8月11日認可指令を受け、「無限責任秩父信用販売購買組合」が誕生した。

精米・菓打工場を利用する組合員


設立当時の組合出資金は80円で、信用事業としてこの80円を3人の組合員に貸し付けた。また、購買事業として深川から煮干しを一箱仕入れ、組合員に分けたのが始まりで、店舗も職員もいなかった。


大正9年に事務所兼店舗を建設してから組合の業績は飛躍的に増大。

大正10年には農業倉庫(150坪、495㎡)を1万8,215円4銭で建築し、6,345円の補助金と農業倉庫業の経営認可を受け、その翌年には精米、ワラ打ちなども始め、全事業を行う事になりました。

大正末期の農業倉庫


昭和12年、木造2階建て807㎡の事務所兼店舗を2万6,714円で新築。この建物は木造ではあるが、当時の産業組合事務所は、いずれも民家を改造した程度の建物であった事から、偉容を誇る建造物でありました。 更に翌年には農業倉庫を建築し、翌々年には醤油と賃コウジを主体とした醸造業務を始め、年々事業は拡大の一途をたどりました。

しかし秩父産業組合は、昭和18年3月に公布された農業団体法に基づき、昭和19年1月1日付けをもって秩父別村農会とともに解散を命じられ、33年の組合の歴史に終止符を打ちました。

昭和13年頃の東配給所


西出張所


醤油醸造・貸コウジ工場


昭和12年事務所兼店舗の棟上式


昭和19年1月31日、秩父別村農業会の設立総会を開催。2月4日付けで設立認可と会長に大西又五郎氏を任命する旨の任命書が交付されたが、食糧増産するための指導・督励・統制と言う事業分野が脚光を浴び、麦を1表集荷するにしても農民の視点ではなく、戦争遂行のためという上部からの押しつけになりがちであった。



農協の設立

昭和22年12月15日、待望の農業協同組合法が施行され、全国一斉に農業協同組合設立の火ぶたが切って落とされた。農業改革の一翼をになう農業協同組合が、新たな希望と使命を帯びて全国各地につくられていった。

村においても、すでに農協設立の準備態勢が整っていたので、この年の12月20日、秩父別農業協同組合設立推進委員会が、秩父別村農業会小会議室で開かれ、これに引き続き12月26日、第1回の設立発起人会が開催された。

この第1回の発起人会においては、まず発起人代表に佐藤銀治郎氏を選び、続いて設立準備会の日程、設立目論見書の基本的な問題を協議した。

なお設立発起人は次の66名である。

佐藤銀治郎、横山義雄、伊藤春美、畠山吉蔵、小山幸次、吉田幸次郎、新見鴻一、玉井勇、渡辺一直、加藤喜太郎、堀田勝三、木川田 勉、高橋 弘、吉沢逓一、戸田豊光、山崎林蔵、上田清次郎、井原繁男、高木弥八郎、小林幸作、川田 勝、高橋由一、横山富蔵、後藤義雄、太田泰助、山森勝造、米重 勝、小林久吉、上野昌彦、八沢 悟、造田 繁、奥田金太郎、山本重太郎、後藤吾三郎、黒田鉄夫、安田清一、高崎義市、永守由松、栗林由太、田村清吉、大野清一、沼田吉太郎、三越政夫、惣伊田三松、川合幸三、中村鎌三、福田豊七、橋本伊作、塩地松一、坂本要悦、柴田軍次、神藪 稔、宮島久夫、山本雪国、得能与吉、本山太偉功、浦川重雄、燕昇司覚蔵、林信三郎、大浦外吉、佐藤慶治、宮武彰、名畑徳三郎、森剛、稲井龍平、佐々木平八

〈敬称略〉

翌23年1月11日設立準備会開催の運びとなり、設立目論見書を決定した。


昭和23年1月24日は設立総会開催公告と同時に、設立同意者に招集通知をし、2月8日午前10時から秩父別村農業会大会議室において、農民期待の歴史的な秩父別農業協同組合設立総会が開かれた。

この日の出席者は設立同意者1,391名、うち正組合員資格者1,391名、出席者1,256名(うち代理出席117名)で、広い会場もいっぱいとなった。

このときの総会は、今までの産業組合や農業会の総会と異なり、主婦や青年も組合員になったため、会場は老若男女が入り交じり、ひときわにぎやかなものであった。

佐藤銀治郎設立発起人代表から、設立総会にいたるまでの経過が報告され、ついで議長には佐藤発起人代表が推挙されて議事に入り、総会議事細則の設定、定款の制定、事業計画の承認、賦課金賦課徴収方法の決定、貸付金利率最高限度の決定などについて審議が行われた。

なお、選出された理事、監事については次のとおりである。

理事

笹木正信、荒貝辰蔵、宮武彰、大西忠男、佐々木正、高崎義市、山森勝造、斎藤重尊、田中源太郎、岡田仁一郎、竹内 剛、飛谷吉次、中村喜一、橋本伊作

監事

大野清一、篠田喜一郎、井原繁男、吉田幸次郎、青木義治

〈敬称略〉

また、理事会では初代組合長に大西忠男氏を、専務理事には竹内剛氏を互選して、秩父別農業協同組合は名実ともに発足した。

総会終了後設立認可申請を行い、3月5日空知管内では2番目となる認可指令を受け、4月1日に設立登記が完了し、秩父別農業協同組合が誕生しました。

農協設立の知事認可書


8号倉庫鉄骨組み立て作業(昭和32年7月)


産業組合以来、農民の自主自立を目指した試験と苦難の道のりではありましたが、組合員と役職員が一体となった努力で安定した経営の基盤拡充が図られ、昭和39年に全国農業協同組合中央会の「全国表彰」、昭和40年に朝日新聞社の「朝日農業賞」、更に昭和45年に全国のJAで最高の栄誉である全中「特別表彰」受賞の栄誉に輝き、組合運動の足跡が讃えられました。

組合創立60周年・全中特別表彰受賞・農協会館新築落成記念式典記念式典受付風景(昭和45年8月18日)


今日まで培った強固な経営基盤を引き継ぎ、地域に密着したより力強く活力に満ちたJAを構築する為、平成15年2月1日に妹背牛農業協同組合・沼田町農業協同組合・秩父別農業協同組合の3JAが合併して「北いぶき農業協同組合」が誕生しました。

今日では考えられない稲刈

トラクターによるしろかき作業

農業の近代化に伴って完成したスタンド(昭和36年8月)

昭和35年頃の米の出荷



旧JA沼田

沼田町開拓の歩み

沼田町の開拓は、富山県出身の沼田喜三郎が設立した開墾委托株式会社雨竜農場(通称、雨竜本願寺農場)が行った。明治27年に富山県砺波地方から18戸を移住の勧誘に成功し仁多志別(現在の沼田町北竜地区)に拝み小屋を建てたのが始まり。融雪を待ち、翌年、達布、原野地区(現在の沼田南、中央の一部)および仁多志別において開墾の第1歩を踏み出した。

本格的な開墾事業は明治28年から始まり約600戸の小作を富山、石川両県の真宗信徒から移住希望者を募集した。28年に180戸、29年に200余の団体で入植し、開墾作業に当たった。事業期間は定款で10ヵ年を目処とされ、粗整地を労務者が担当し、耕地としての整地を小作人にゆだねた。同社は、農産物を一手に販売したほか道路開削、橋梁の架橋、用水路および水路の開設、水田造成など農業生産環境の整備にも力を入れた。さらに、沼田町北竜市街地区の区画整理など市街地作りにも取り組み遠大な農村の建設を行った。

開墾作業は、会社直営の所では馬や進んだ農具を利用、大農式の経営を行っていた地区もあるが、それはほんの一部で、熊に怯えながら鍬と鎌だけが頼りの原始的な作業であった。入植者の常食は、稲黍、麦、そば、とうもろこし、馬鈴薯、かぼちゃ等でそれらを主食にしたり、塩や味噌で味付けして副食にした。造田計画が進み、米が収穫されるようになってから米と雑穀を混ぜたものを主食として生活した。

沼田産業組合



共成信用販売購買組合の設立

大正2年の大凶作を契機に、沼田でも産業組合設立の機運が徐々に高まってきた。こうした中で共成小学校区域を中心に産業組合設立の動きが活発化し、沼田村農会の指導もあって共成信用販売購買組合の設立総会にこぎつけた。

設立に当たっては、沼田村農会の秋山文雄技手をはじめ、辻村高蔵、橋爪兵治、浦崎菊次郎、福田茂喜太、宮本利右衛門および稲垣源一、高松政継らが尽力して準備を進め、大正6年4月30日に共成小学校区域の7農事組合、組合員93名を内容とする設立認可申請を行った。

設立認可が翌大正7年1月31日にあったのを受け、早速創立総会を開き、理事に辻村高蔵、橋爪兵治、浦崎菊次郎、監事に福田茂喜太、宮本利右衛門を選出、組合長に辻村高蔵が選ばれた。

設立当時の組合員数は93名で、第1回の払込金1口2円の合計186円の出資金でスタートした。このため事務所などを建てることができず、土功組合中越出張所を借りての事業となった。その後、増築し、事務所兼店舗としての体制を整え、秋山文雄技手が書記として信用事業では規約貯金、義務貯金の取り扱い、購買事業としては砂糖、正油、煮干、麺類を取り扱う程度であった。いずれにせよ前例がない組合運営だったため、関係者の苦労は大変なものであった。

設立当時の共成信用販売購買組合


上北竜信用販売購買組合の設立

共成組合設立と併行して、沼田地区でも産業組合設立の機運が高まっていた。特に当時の上北竜村の斉藤常松戸長が、産業組合の必要性を関係者に説き、指導的な役割を果たした。こうした働きかけに呼応し農会の佐藤甚平技手、今井農場の植木四郎管理人、大竹音蔵、炭礦汽船の安部栄六主任のほか、神田亥惣次が産業組合設立で奔走し、各農事組合の農家に理解と協力を求めた。

こうした準備が実って大正7年3月17日、沼田小学校区域および奔々、奔仁、真布の3農事組合を区域として、組合員145名で無限責任上北竜信用販売購買組合設立の認可申請を行った。設立認可は同年8月23日におり、9月3日に沼田小学校で創立総会を開催し、第1歩を踏み出した。

創立総会では理事に大竹音蔵、安部栄六、神田亥惣次、植木四郎、篠田喜太郎、木村貞吉、監事に杉山鉄次、藤田源蔵、長堀太丞を選出した。

設立初年度は年度途中であったため12月末で払い込み出資金4,969円、貸付金3,575円、備品20円、現金1,271円、貯金749円、借入金166円の事業実績であった。組合員はその後大幅に増え、227名になったが、翌大正8年共成組合と合併することになる。

上北竜信用購買生産組合事務所


旧事務所(S17年~S39年)


共成、上北竜組合の合併

大正7年に相次いで設立された共成組合と上北竜組合であったが、将来の農業倉庫をはじめ関連諸施設の建設や運営には、一丸となった取り組みが必要となってきた。このため、関係者の間で、「両組合とも設立間もないが、この機にこそ合併し、強固な産業組合を設立すべきだ」とする声が高まった。

この背景には、(1)農業倉庫業法の制定で産業組合の倉庫事業に道が開かれた、(2)同じ沼田に二つの産業組合が存在することは、沼田の農業振興にプラスにならない、(3)両組合とも設立間もなく、地域色がついていない、(4)厳しい農業情勢に協同の力で立ち向かっていく必要があるなどがあった。合併の議論は、両組合の間で勢力的に行われ、無限責任の産業組合とし対等合併することで双方合意に達した。

 

この合併は、大正8年5月1日付で認可され、上北竜信用販売購買組合として発足、本部を従来の上北竜組合に、共成組合を共成出張所とし、主に購買事業に力を入れることになった。設立当時の組合員数は147名、出資額は4,610円であった。



農協の設立

昭和22年末になって、農協の設立機運は一気に高まった。沼田町における農協設立も、かつての産業組合運動の先頭に立ってきた人たちをはじめ、農民同盟の人たちを中心に盛り上がりをみせ、12月の農事実行組合長会議で設立発起人の選出が決まり、各農事組合から1名、農民同盟から5名の合計42名が設立の発起人として次のとおり選出された。

神田又一、柴田覚四郎、野与作、田島佐七、高橋与三松、沢田太一郎、林清吉、橋本木代松、吉光春吉、今村松治、塚八卯太郎、大三島主計、生沼明蔵、生田源平、山岸三吉、木村貞雄、山上徳一郎、杉本理佐久、鴻上虎一、高橋宏通、橋爪藤市、不藤新一、石井亀次郎、加賀城清、林一正、松田伊作、石川二郎、早川利明、安部勇蔵、三岩徳雄、中村作次郎、佐々木利四郎、中山朝二、岩村与十郎、西森高治、高橋兼松、畑庄太郎、中村清次郎、津川直一、岡田太一郎、横山安太郎、林寿一


設立発起人会は昭和23年1月13日、沼田町役場で開かれ、目論見書について協議した。また、同年2月7日には発起人代表の岡田太一郎を議長に2回目の発起人会を開き、組合員の資格審査を行い、創立総会に向けての準備を整えた。

目論見書では、(1)地区を沼田町一円とする、(2)出資金は一口500円とし、1組合員4口以上とする、(3)組合員への資金の貸付、貯金の受け入れ、(4)組合員の生産する物資の運搬、販売など組合のあるべき姿を明らかにした。


組合員待望の沼田町農協の設立総会は昭和23年2月15日、沼田小学校で開かれた。設立総会には組合員943名(正組合員902名)のうち770名(本人出席742名)が出席、会場はあふれんばかりであった。まず、発起人代表の岡田太一郎が設立の経緯について説明、引き続き岡田太一郎を議長に選任して、(1)定款承認について、(2)事業計画承認について、(3)理事、監事の選挙について、の3議案を審議、これを原案どおり可決した。なお、同日選出された理事、監事は合計18名で次のとおりである。

理事

中村竹蔵、江田伊八、不藤新一、栗中孝一、山上徳一郎、沢田太一郎、土田与造、金子寅次郎、安部勇蔵、橋爪新次郎、稲田卯一郎、橋爪藤市、鴻上虎一、中川重雄、田島佐七

監事

岡田太一郎、森竹千代、津川直一

また、3月11日には役員会を開き、理事互選の結果、初代組合長に土田与造、専務理事に金子寅次郎、常務理事に中村竹蔵を選任した。さらに同日監事会も開かれ、常任監事に岡田太一郎を選出、執行体制を整えた。

沼田町農業協同組合は昭和23年3月5日付けで設立が認可され、同年4月19日に設立登記を完了し新しい第1歩を踏み出した。

昭和24年 恵比島出張所


昭和24年 北竜出張所


北いぶき農業協同組合として新たな船出をするまで、幾度かの大凶作や災害に見舞われる試練を受けたが、組合員と役職員一体となった努力でその困難を乗り越え、その努力が全国的に認められ、昭和17年、昭和38年にはJAで最高の栄誉である全国農業協同組合中央会「全国表彰」「特別表彰」受賞の栄に輝いた。

昭和47年 恵比島育成牧場

米の出荷の様子

昭和初期 田植え

経済更生の指定による事業、手前が澱粉工場、後方が醤油工場

ブルドザーによる開田

庫入れも歩み板からスタッカーへ